まちの保健室のイベントで、グラレコさせてもらったお話の続きです。
当日の様子はこちら。
→2018/05/15 「島のほけんしつ×まちの保健室ケアカフェtobeライブトーク」でグラレコしてきました!
もくじ
グラレコデビュー戦の感想
初グラレコで、描ける人と同時進行で横並びで描く、って天国なのか地獄なのかよく分からん状況でしたが、隣で描いてるトーカツさんのが目に入るたび、
あーこれ描きたい!こんなん描けたらなあー(>_<)
え!さっき無かったのに、この短時間でこの動きのある人描いたの?( ゚Д゚)
とか思って、描きながら凹みそうになるので、
「この瞬間にいきなり上手くなることはねえし、描けるだけ描こ」と気持ちを切り替えました。
そうは言っても、出来上がったグラフィックは、やはり雲泥の差。
「やっぱり文字多いし、絵で説明できてる分量が少ないなあ…」と、当然の結果なので凹みはしませんが痛感。
イラスト至上主義は勝手なゴール設定
「もっと動きのある人とか、絵を描く練習して、アイコンから脱出しなきゃなあー」と思って帰宅。
そしたら、見に来てた方が嫁さん経由で「すごく心に響いた言葉があったんだけど、書き留められなかった。でも、前を見たらその言葉が書いてあって良かった」と言ってくれてたと聞きました。
その嫁さんは朝から一緒に会場に来たものの、子供を迎えに行くためにグラレコは途中退席。
なので、ライブトークは最後まで聞けなかったのですが、完成したのを見て、「もちろんトーカツさんの方が、絵がふんだんにあって綺麗な作品。だけど、その場に居なかった人にとっては、字が書いてある方が話の内容が良くわかる」と。
この観点は自分の中に無かったので、驚きました。
と、同時にとても考えさせられました。
- 「字」が多いと、読んでもらえない。
- だから、ひと目でたくさんの情報が伝わる「絵」の分量を増やして、極力グラフィック上の「字」を減らそう。
- 「字」が少なければ少ないほど、上手で良いグラフィックだ。
「字」の分量を減らすことに固執する、イラスト至上主義、とでも言いましょうか、勝手に思い込んで目指すところとの差に悩んでました。
でも、大事なことは、「何が描いてあるか」じゃなくて、「見た人に伝わるかどうか」なのですよね。
グラレコの絵は非可逆圧縮
そんなことを考えてたら、「圧縮」と似てるのかな、と。
「文章で書くと長くなる説明」を、1つの「絵」で表現する。ある意味「情報の圧縮」ですね。
でも、その絵を見ても、完全に元の説明文は一言一句再現できないので、「非可逆圧縮」です。
Wikipedia先生から引用するとこんな説明です。
非可逆圧縮(ひかぎゃくあっしゅく)とは、圧縮前のデータと、圧縮・展開を経たデータとが完全には一致しないデータ圧縮方法のこと。(中略)圧縮に伴い、データは欠落・改変する。
(出典:Wikipedia 非可逆圧縮 https://ja.wikipedia.org/wiki/非可逆圧縮)
小さくは出来るんだけど、情報は欠落してるので元には戻らない。写真のJPEGや音声のMP3がお馴染みですね。
ちなみに反対は「可逆圧縮」。
可逆圧縮(かぎゃくあっしゅく)とは、圧縮前のデータと、圧縮・展開の処理を経たデータが完全に等しくなるデータ圧縮方法のこと。ロスレス圧縮とも呼ばれる。
(出典:Wikipedia 可逆圧縮 https://ja.wikipedia.org/wiki/可逆圧縮)
こちらは圧縮で情報が欠落していないので、展開(解凍)しても元に戻ります。
圧縮で良く聞くZIP、画像のPNGやGIFが有名です。
その場に「居た」人「居なかった」人、誰のために描くのか
話を戻します。
「絵」から「話してた内容」を理解してもらう、それは先ほどの圧縮の例だと非可逆圧縮したものを元に戻そうとする作業なので、圧縮で「欠落」した情報を読み手に補完してもらわねばなりません。
その点でも、「伝達手段としての絵」は読み手に委ねる割合が大きくなってしまいます。
話の場に居た人に向けての「振り返り」であれば、一回聞いた話を思い出すきっかけを与える程度の情報量があれば十分です。
なので、絵が主体でも大丈夫で、むしろ字が多いと情報過多でうるさくなってしまいます。
一方で、話の場に居なかった人に対して、話した内容を共有する/伝えるのであれば、先ほどの場に居た人とは違って思い出すものが無いので、ある程度の文字情報を含めておく必要があります。
全てをグラフィックから読み取るしかないので、絵だけでは描き手が意図しない受け取り方をされてしまう可能性/危険性があります。
それを補助する意味合いで、文字による説明を入れることは「悪」ではなく、読み手に対する「配慮」でもあるのでしょう。
イラスト至上主義への執着は捨てよう
そんなことを考えてたら、とあるインタビュー記事が目に入りました。
○売れっ子作曲家5人が語る、“自分がコツをつかんだ瞬間” : 藤本健の“DTMステーション
http://www.dtmstation.com/archives/52014271.html
記事やサイトはグラレコとは関係ないジャンルです。
学生の頃からMIDIの打ち込みやってて、未だに好きなので更新されるたびに読んでます。
私はもちろんインタビュー現場には居なかったので、内容を完全に共有しようと思うと記事のような「全文書き起こし」もしくは、録音を聞くか録画したものを見るか。
いずれにしても再現性は高いですが、全文を読む、全部を見る・聞くための時間が掛かってしまいます。
では、どうやって相手が内容を理解する時間を短縮=圧縮するかがポイントになりますね。
極端には一枚絵とかキーワード一言にまとめちゃう。でもこれでは、欠落する情報量の方が圧倒的に多いので、共有の意味合いではゼロに等しくなってしまいます。
そういう意味でも、「一枚絵」と「全文書き起こし/録音/録画」の間に居て解決策になり得るのが「グラレコ」だと思います。
そのグラレコも、「絵の分量」と「文字の分量」が共有度合いに影響して、絵の比率が上がり過ぎると共有度合いが下がることもあり得ることもあるので、字を減らすこと=イラスト至上主義に執着しない方が良いとの結論にたどり着きました。
改めて文献や、色んな方が描かれたグラフィック見てたら、結構字の比率が多いものもたくさんありますね。
狭い視野で執着してたのを実感しました。
「伝える」ために字が増えるのはいいじゃないか
自分の中で、
- 「全部を描こうとせずに”聞き流して、描かない勇気”を持つ」
- 「選別した情報をグラフィックとしてどう描き残すのか」
の2つがごっちゃになっていたところもありますが、「絵が描けないから字が多い、字だらけになってしまう」と、「絵は描けるけど、ここは敢えて字で伝えるべきだと思って字が増える」は、明らかに違うと気付きました。これから描く時には、次の点を心掛けようと思います。
- 多少字の分量が所謂描ける人より多くても、「自分はこの意図・目的で、字と絵の割合になりました!」と胸を張って言える域にたどり着くくらい、とにかく描く。
- 描きっぱなしでは、「伝わったか」が分からないので、自分以外の誰かに見てもらってどう受け取ったかを聞いてみる。
初心者が描いたのを人の目に晒すのって、逃げたくなるんですけどね。
これをやっていかないと、前には進まないですから。
長々と書きましたが、今回のデビュー戦では貴重な経験を山ほどさせてもらいました。感謝感謝です。